偶然であったおじさんの話

雑記

休日には自転車で走るのを趣味のひとつにしています。
先日近所の河川敷を走っていたのですが、休憩しているとおじさんと話したときのことを書きたいと思います。
始めはおじさんに道を訪ねられただけだったのですが、話が膨らみ気づけけばその方の半生を聞いていました(立ち話で1時間!)。

誰しも歴史がある

おじさんの年齢は話の内容から推測するとおよそ80歳。年齢を感じさせない元気なお人でした。
お聞きした話が全て事実なのかはわかりませんが、とても興味深く聞くことができました。

話は戦時中から始まりました。終戦時に6歳か7歳だったようです。当時、おじさんは大都市の近郊に住んでいたそうです。現在私も暮らしている街です。その大都市は米軍の大空襲を受けたことはよく知られており、学校の授業でも習いました。しかし、自分が暮らしている街のことは知りませんでした。近くではありますが戦争の被害については学校でも全く聞かさせることはなかったからです。大きな被害はなかったように思っていました。
ところが、おじさんによると大都市と同じく空襲の被害を受け、さらに戦闘機が低空で飛び回っていたというのです。それも機体に書かれた文字が読めるほどの距離だったとのこと。誇張されているかもしれませんが、当時小学校に入ったばかりだったおじさんは相当に怖い思いをされたことだろうと思います。
そこからは、疎開先での暮らしなどをお聞きしました。終戦後に戻ってきても食糧難で苦労されたそうです。

時代は飛んで、成長したおじさんはあるダンボールメーカーに就職します。高度経済成長期に入りダンボール箱の需要が高まり工場がどんどん拡大、技術者だったので新規工場の立ち上げなどに尽力されたそうです。国内だけでなく海外でも工場を作り、その指導にあたられたのだとか。
今でこそ、何でもダンボール箱に入れて配送されていますが、当時はサイズなど規格の統一、強度などの品質改良などなど様々なことが大きく動いていたようです。細かな話はわかりませんが、激動の時代だったということは伝わってきました。テレビで戦後の歴史などを見ると自動車や道路、新幹線などが取り上げられることが多いとは思いますが、身近なものも大きく変化していたようです。
思い返せば、私が小さかったころは遠くから送られた荷物は家まで届けてくれるのではなく、国鉄の駅まで受け取りに行っていたものです。今では、早ければ発注した日のうちに手元に届くようになったのですから、変化はまだ続いていますね。

海外赴任など様々な勤務地での勤務を経て定年を迎えたおじさんは、ゴルフ場に再就職し管理業務を10数年務められたそうです。
そこを引退したのを機に地元に引っ越しをして、懐かしい場所を廻っているとのことでした。
お聞きしただけでも相当ご苦労されたことは想像できましたが、今も奥さんやご家族と仲良く暮らされているそうです。

自分は・・・

通りすがりに出会った見ず知らずの人から、半生を聞くなんてなかなかないことです。(居酒屋で隣り合わせた人とは酒の力もあって語り合ったことはありますが)
おじさんの人生は色々ありながらも充実したものだったことでしょう。でも話した感じだとまだまだ隠居するような感じではなく生き生きとされていました。

今の私はまだまだ定年には時間があり子育ての最中でもあります。おじさんを見ていると、この先の人生をどう生きるか、どんな人生にしたいかを改めて考えてみたくなりました。
これまでの自分が生きた中では何を目指してどこまで達成できたのか。おじさんの年令になる頃にどうなっていたいのか。
私の好きな言葉に、作家の吉川英治が書かれた「我以外皆我師」があります。自分以外のものは全て師であり心がけ次第で何からでも誰からでも学ぶことができるということだと思っています。おじさんとの会話をきっかけに自分を見つめてみようかと思ったという話でした。

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